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たなか きょうきち
田中恭吉
TANAKA Kyokichi
1892-1915


 1892(明治25)年4月9日、和歌山市に生まれました。1910(明治43)年、県立徳義中学校を卒業するのと前後して上京し、約1年間白馬会原町洋画研究所に通い、翌年東京美術学校日本画科に入学しました。
 しかし旧態的な日本画教室にだんだん懐疑を抱くようになり、研究所の頃からの友人、藤森静雄や大槻憲二(おおつき けんじ)、土岡泉(つちおか いずみ)らと同人雑誌『ホクト』を作ったり、竹久夢二(たけひさ ゆめじ)や彼の仲間の香山小鳥、恩地孝四郎らとの交流に精力を傾けるようになります。ほかにも第1回ヒュウザン会展に出品したり、雑誌『少年界』や『少女界』で筆を振るったり、新たな同人雑誌『密室』を制作するなど、積極的な制作活動をおこないました。
 しかし、1913(大正2)年、肺結核を発病してしまいます。その後すぐ木版画を手がけはじめ、静養のため故郷に戻りますが、新作を親友の藤森や恩地と郵便で交換しあい、制作を続けました。そして1914(大正3)年、3人による詩と版画の雑誌『月映(つくはえ)』を創刊します。
 死を予期した恭吉の創作はますます緊張感を増していき、木版画をつくる体力がなくなるとペン画や詩歌の表現が中心になっていきました。そして、1915(大正4)年10月23日、和歌山市内の自宅で逝去しました。享年23でした。
 その後、恭吉の作品は、1917(大正6)年に刊行された萩原朔太郎の詩集『月に吠える』に取り上げられ、人々の記憶に残されました。



なわれゆくかんきとひしゅう
綯はれゆく歓喜と悲愁
Joy and Sorrow Being Twined
1915(大正4)年
木版、紙
woodcut on paper


 横になって悶え、絡み合うふたりの人物を頭の方から捉えています。しかし足に見える部分は周囲のうねる線とともに、身体的なつながりがもはや曖昧になっており、実在の人物像というよりは、精神的な存在に近いことを感じさせます。ふたりは激しく渦巻く妖気のなかで、一体になろうとし、また離別しようとしているようにも見えます。生と死、意志と運命、愛着と憎悪、そして喜びと悲しみといった二元論的に考えられる要素が、相克しながら一体化し、高められるさまが表現されています。
 この作品は、田中恭吉がのこした版画のうち、最後の数点のうちのひとつです。恭吉は肺結核を患い、1914(大正3)年4月に和歌山へ帰郷し、静養していました。そして東京にいる仲間の恩地孝四郎や藤森静雄から届く新作を見るたびに今にいいものをつくるんだと自らを励ます日々を送っていました。やがて同年12月頃から鉛筆やペンで「綯われゆく歓喜と悲愁」のイメージをまとめはじめ、翌年1月、木版画に仕上げます。それがこの作品です。
 「版画が一つ出来た、板っぺらが不意に出てきたせいだ 叱られるかもしれないが 大丈夫なんだよ、/『綯はれゆく歓喜と悲愁』/何だかうれしくって仕方がない(おちついてゐるよ)」と、その完成度に満足する言葉が恩地あての書簡に記されています。恭吉が辿り着いた世界観を、文字通り生命とともに刻みつけた作品です。


ケイ

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